プロフィール

このブログをご覧いただきありがとうございます。

ブログ運営者のコンビニ副店長です。

1974年生まれ、アラフィフです。

このプロフィールでは、僕の幼少期から現在までをなるべくコンパクトに、赤裸々にまとめてあります。

目次で飛べますので、興味があるところから読んでもらっても大丈夫です。

キーワードは、負け組の遠吠え。

幼少期

長野県茅野市に生まれる。

諏訪湖畔のとても気候のいいところ。

弟が一人。

そして、小学校1年生で親の仕事の都合で岐阜県岐阜市に引っ越し。

そこから、中学、高校時代まで過ごす。

小学生から中学時代

小学生時代は背が高く、常に全校集会では後ろの方。

給食のは早食べが得意だったこともあり、転校してすぐに馴染むこともできた。

高学年になると、放送委員会に入って、校内放送を担当。

得意科目特になし。

国語も苦手、算数も苦手。

でも、図画工作は好きで、小学校5年生の時に市の展覧会で入選経験あり。

小学校4年生から剣道を始める。

当時はやっていた六三四の剣という漫画の影響もあり。

ファミコンを買ってもらったのは小学5年。

好きなファミコンソフト
「スターフォース」→ハドソン
「グラディウス」→コナミ
「エキサイトバイク」→任天堂

友達は少ないほうでしたが、少人数でつるむことをしていました。

でも、いまだにつながる友人が一人、小学校時代から付き合い。

小学校の時の貴重な体験

おやじがとにかくお金にだらしなく、借金取りが家に来ることもあり。

実際に玄関で対応した。

子どもだったので、相手の方も無理は言ってこない。

電話もなんどかかかってきた。

そのうち、対応にも少し慣れてきた。

サラ金とかあって叔父に借りて返したと、最近聞いた。

中学時代

岐阜市内でも屈指のマンモス中学校に入学。

当時、学年のクラスが15クラス。

1年2組2番で在籍。

その時の夢は「漫才師になりたい」などと書いていた。

なぜか、ビートたけしさんの本が好きになる。

1つ後ろの三番の子が当時の芙蓉グループの中心人物の弟君で何回も誘われたけど、
なんとなくスルー。でも、なぜか仲が良かった。

体格が買われ柔道部に入部。県下屈指の強豪校で、先輩は強い人も多かったけど、
今では語れない、ブラック部活。
後輩はほぼ奴隷扱い。先輩は後輩を練習台と称して、いじめもあり。

いやいや通いながら、一つの転機。

マンモス中学校が分断されることに。

中学2年の進級とともに、新中学校へ転入。

事実上のその中学の第二期卒業生となる。

あいかわらず、勉強は全般苦手。

特に美術に関しては、1年生のころなぜか、美術担当の先生に嫌われたので、全くやる気なし。
嫌われた原因はさがかじゃないけど、その授業がある日に限って学校を休みがちだったからかなと。

部活は卓球部に入部。

柔道から卓球部に。友人の影響もあり入部。体育館が狭かったので、校舎の廊下で壁打ちをしながら地味に練習。

ほぼ初心者の状態から地味な練習をしつつ、なんと3年の大会では市の大会で団体戦で3位入賞のメンバーに。

ここで、知ったのは「自分が楽しいと思うことが一番。」と言うこと。

でも、相変わらず勉強はコツがつかめず。高校受験には公立高校の受験に失敗して、学費が高い、私立高校に入る。いわゆるすべり止め。

報道委員会の委員長を務めるも、うまくいかず。

ここまでのまとめ

うまくいったこと→卓球部

失敗したこと→高校受験、報道委員長、最初の部活。

分析すると、人から言われたこと、周り(親や先生など)から言われたことはうまくいかない。

自分でいいと思ったことはうまくいく可能性がある。ということ。

高校から大学時代

地元の私立高校へ進学。

その高校は、商業科普通科進学科の3コースの高校。

当初は普通科に入学したが、進学科に空きがあることを知り編入試験を受ける。

そして、編入していわゆる少数精鋭のクラスに編入。

クラスの仲間?は、いわゆる県内屈指の進学校レベルに通じる学力の持ち主。

少し、自分の病気のこと。

小学校のころから重度のアトピー性皮膚炎に悩まされる。

週一回医者に良くも改善の余地なし。

そして、高校時代にさらに悪化。

体育の時間に体操着に着替えるのが嫌だった。

ある友人にはエイズと言われる。

とにかく痒みとの戦いでした。

いまもまだ足には出てます。なので、結婚はもう無理かなとあきらめました。

ある英語の先生との出会い。

やばい先生がいた。

背は小さいが、とにかく怖い。

なんだろう?この怖さ。

でも言われたこと。

「おまえら悔しくないんか?公立落ちて。」

明らかに違うオーラ。

実は、この英語の先生もこの高校の卒業生。

ダメダメな自分をお父さんの猛烈指導で、英語の名門獨協大学に入った。

ということで、まず与えられた課題が単語3000語を覚えること。

3000!ということで、僕は馬鹿正直にやることにした。

でも、痒みもありなかなか勉強に集中できることもなかったけど、

あの言葉がそうとう僕の中の原動力になっていた。

僕は、公立高校に落ちた時に泣いてしまった。

でも、今振り返ると、かなり高校受験を舐めていた。

塾もさぼり気味。

そして、勉強もどこかやる気がしない。

何を勉強すればいいのか?みたいな暗雲たちこめていた。

そして、ほとんど勉強の理解度が低いまま臨んだのでそりゃ落ちます。

でも、やっぱり悔しかったんでしょうね。

部活。

どうしようか迷ったあげく放送部に入部。

入った理由は、単純に勉強との両立ができると思ったから。

でも、それが甘い考えでした。

入ったら全国大会の常連校。

全国高校NHKコンクールもあり、スラムダンクで言うと海南みたいな高校。

そうガチな文科系の部活だったんです!

しまった、下調べが足りなかった!と思いつつ、入部。

実は、入ってよかったんです。

部活がセカンドプレイスに。

相変わらず、体の痒みと闘いながら、部活生活をスタート。

そして、やっているうちに部活の同級生とのほうが仲良くなっていきました。

素の自分を出せるというか、結構楽しめるセカンドプレイス的な場所になりました。

ただ、1年生のころは基本的なことを覚える時期で、実際に番組を作って大会にでるのは
2年生から。

2年生はラジオ番組、3年生はテレビ番組を制作。

その下積みをするのが1年生。

でも、かなりの連帯感が生まれてクラスの仲間よりも密な関係になりやすかったです。

高校時代まとめ。①

意外と充実していた。

部活も勉強もいい先生、いい仲間との出会いで私立=すべり止めみたいな感覚は1年生の1学期で吹き飛んでいた。

クラスの仲間も個性的な人が多い中で、ある意味中学受験で燃え尽きてしまった人もいた感じ。
なおさら、ぼくみたいな編入組みのほうが、意外とやる気に満ちていたような感じでした。

そして、英語だけはなんとか偏差値70台まで持っていくこともできた。
一方で、数学は数1で挫折。

偏差値70までに愚直にやったこと

単語帳のみ。あとは、学校で出された教材のみ。塾にも行かず。愚直に単語帳を覚えた。

部活も2年生、3年生ともなると番組作りに参加。

ラジオ番組部門では全国9位になれた。

そして、大学受験をすることに。

この時期の大学受験は、ちょうどピーク。

倍率が10倍、20倍当たり前。そんな時期だったので、英語だけでしか勝負できない自分は苦戦。

最終的に、地元の大学の2次募集と愛知のぼう商科大学の最終募集に滑り込みで受かった。

でも、本当に行きたい大学ではなかったのだが、せっかく受かったので名古屋の大学に進学することにした。

高校時代は、放送部がセカンドプレイスであったと同時にクラスではおとなしい方でした。

友達も一人いましたが、ささいなできごとで仲直りできず、決まった友達とるつるむということはしないでいました。

このころも、小学校からの親友つながりで、4人ほどでつるむことが多い状態。

そういう状況だったから、ある意味勉強に集中できたのかもしれない。

そして、僕が編入組ということで最初は少し見下された感を感じていましたが、英語の成績がだんだん良くなってくるにつれてだんだん周りの目も違ってきました。

燃えついていた子もいるし、これから頑張ろうとする子もいたし。

で自分は結局どうだったかと言うと、自然と頑張る側になって言った感じです。

高校時代まとめ。②

良い師との出会いが結果を変える。

ってよく言われますがそれを実体験した時代でした。

そして、受験勉強は無駄だみたいな理論がよく聞かれますが、それは大きな間違いです。

なぜなら、今大人になって学びなおしをしたいと思っている方も多いからこそ、音声配信のVOICYや自己啓発本なんかも売れているから。

でも、ただ単に上から「やれ!」と言ったスタンスではなく、

自分の心にグサッとくるような言葉をくれる先生に出会えたのが良かったです。

そして、セカンドプレイスを持つことの重要さ。

部活はおおいに自分のセカンドプレイスになりやすい。

学校のクラスの仲間では得られない。

これも、自分なりの根拠があって、

クラス→学校側が決めるもの
部活→自分が決めるもの

ようするに、自分が決めたことで価値観が共通した仲間に出会いやすいという多大なメリットがあるからです。

意外と、うまく言った感があり無事に大学にも進学をしたのですが、ここからだんだんいわゆる社会のレールから外れていくことになります。

だんだん社会のレールに疑問を感じ始めた大学時代。

そして、無事に大学進学を果たし入学式も終え大学生活をスタートさせることに。

しかし、かよっつまもなく3つの嫌なポイントに遭遇することになります。

嫌なこと①驚異の通学距離

嫌なこと②環境の悪さ

嫌なこと③始発で見たサラリーマンの疲れよう

そう、高校まではいい意味でのらりくらり生きていたのですが、だんだん自分の裏の部分も出てくることになります。

嫌なこと①驚異の通学距離

僕の通学ルート

名鉄名古屋本線新岐阜駅→名古屋

地下に潜る

地下鉄東山線名古屋駅→伏見
地下鉄鶴舞線伏見駅→赤池

地下脱出

名鉄豊田本線赤池駅→米野木
名鉄バス米野木→名古屋商科大学前

おおよそ片道3時間の旅!です。

このころは、今みたいなインターネットやスマホも普及してない時代。

ましてや、携帯電話なんてまだまだ高値の花。

電車の中でもすることもない。

学生には手が出ない。ポケベルは持っていました。

だから、座れないともう、地獄、そして、地下鉄では地元の高校生にもまれることもあり。

すでに、学校に到着するころはくたくたになることも。

バスも当時はまだ田舎の部類だったので本数も少なく。

バスも吸われたらラッキー。

嫌なこと②環境の悪さ

環境。ここでは大学の施設面ではなく、周りの友人との環境。

大学に入って間のあたりにしたのは、「みんな何しに来ているんだろう?」

経営学部に入ったのですが、英語も捨てきれず、英語の授業も選択。

1学期まではすごく真剣に通うも、だんだんこれから学んでいこうとしている中で

だんだん大学にいる意味を見つけ出すことが難しくなりました。

と同時に、このころからマクドナルドで洗物係のアルバイトを始めました。

そして、ついにさぼりだすようになっていき、とうとう、大学に行かなくなるのでした。

嫌なこと③始発で見たサラリーマンの疲れよう

そして、これも大学に行かなくなった理由。

「始発の電車の中で見たサラリーマンの姿。」

え?今5時台だけどこんなにいっぱい?

当時はまだスマホもなく、電車の中ですることも特段ない。

いわゆる「席取」をするために、早めから並んでそして、座ったと単に寝る。

そんな姿を見ていて、「ぼくはサラリーマンは無理や!」と悟りました。

?どうして、大学に行くの俺?みたいな。

いい会社に就職するため?え?こんな姿になるのいやや!

っていう言霊が来ました。

そう、最後のトリガーとなりました。

そして、めでたく退学になるのでした。

退学間での経緯。

後期に入り、一応学校には向かう

名古屋をぶらつきながら時間過ごすか、大学の寮に入っている友達?
に間借りして過ごす。

頃合いを見て、岐阜に帰る。マクドがある日はそのまま行く。

そのうち大学から、「出席日数が足りない。」

親にばれる

家族会議で突っぱねる!

退学!イエーイ!

ということで1年ももたずに僕の大学生活は終了しました。

そして、マクドナルドで生きたマネジメントを学ぶ道に入る。

マクドナルドが僕の人生を変えた。

42歳までマクドで勤めることに。

19歳→マクドバイトでスタート。

21歳→マクドアルバイトマネージャーにタイトルアップ

23歳→マクドナルド中途入社

36歳→マクドナルド店長タイトルアップ

42歳→コンビニに転職する事件に遭遇。

47歳、今に至る。

42歳の事件とは?

弟の借金問題の発覚。

親の介護費用、父親の遺族年金、自分の過去の住民税、家賃その他もろもろの借金で総額500万の使途不明金の発生。

たまたま叔父が、通帳をチェックして発覚。

父親は他界して、母親は寝たきりなので、介護施設に入居。

24時間完全介護でとてもいい施設。

母親の年金で何とかなる範囲なので、資金面では心配していなかった。

そして、父親の他界後は同居していた弟にお金の管理を任せていた。

いい大人なので、と言う慢心で招いた事故。

叔父はもと経営者で苦労人だが、今は役員報酬を得ていて勝ち組。

そんな叔父が察知してなにげなく通帳を見たら、すべて抜かれていた。

すべて。

もっと調べたら出るわ出るわのオンパレード。

叔父を中心に立て直しがスタートともに、私にももちろん責任がある。

マクドはハードで、休みはあれどなかなかそこまで関与する時間もなく、結局退職を余儀なくされる。

そんな中、父親の急死とともに、寝たきり母親の介護もままならない為、ケアマネさんが良い施設を紹介してくれた。

さ、これで一安心だ。とおもって1年くらいすぎてからの出来事でした。

叔父が元経営者の手腕を生かし、様々な交渉をしてくれた。

そして、なんと弟の住民税滞納分も一括で返済してくれた。

その額おおよそ、100万!

そして、この時から叔父がお金の管理をし、弟の給料も管理した。

今はほとんど返済も終わりつつある。

そして、タイミングよく今のオーナーから、コンビニの新店を開くから参加してみてくれないか?と打診。

今の母親の事情を話したら、理解してもらい支障がない範囲で勤務ができるとのことで、転職を決意。

36歳店長にもなって人生成功!と思ったのですが。

めでたく36歳で店長になり、無事に家も新築。

よっし、これで大学中退の汚名挽回!と思ったのも束の間。

その2年後、マクドナルドの大転換期に。

直営からフランチャイズに移行。

僕のお店も例外なく、その渦に巻き込まれ、給料の大幅ダウン!

そう、フランチャイズ=個人商店となることで、それまで受けていた恩恵がなくなってしまった。

転職と言う選択肢もあったが、家を新築したばかりでどうにも動けない事態でした。

そして、だんだん家計の状態も厳しくなり、負のループへと落ちていきます。

23歳マクドナルド入社後から店長にタイトルアップするまで。

マクドナルドの絶頂期にアルバイトをスタート。当時は藤田田さんが指揮。

社員の給料がものすごくいいと聞いていて、店長のボーナスは100万以上なんて方もいるとか。

大学も中退したこともあり、マクドナルドのバイトにのめりこみ、そしてアルバイトマネージャーに。

だんだん社員になりたいとの願望が生まれ、中途試験を受けることを決意。

なんと、一回の試験で採用

1店舗目の店舗が岐阜県でも1番売れるビック店舗。→社員とのギャップに悩まされる

当時は私含めて社員マネージャーが7人。一番下っ端なので、ひたすら店舗で働く

2店舗目は、これまた個性強い店舗。
入社して1年経過した時点できた。
不正もはびこり、いわゆるお局様の管轄が。
でも、店長、先輩マネージャーが刷新され一気に店の雰囲気が変わる。

ボーナスが60万超え。ステップワゴンを買って、オプションつけてかなりぜいたく。

でも、仕事は相変わらずハードだけど、クルーとかなり距離が縮まりだんだん仕事も覚えてきた。

3店舗目は、一番人間関係で大変だった。
初めての一人暮らしとともに、土地勘もまばらな店舗。基幹店舗で売れるお店。
クルーのプライドも高く、どうしていいか四苦八苦しながら、サテライト店舗2店舗担当をこなす。
*サテライト店舗とは、スーパーなどにある店舗。
ドライブスルーなどの大きなお店がグループ運営するという形態。

ほどなく、基幹店舗担当で初めて社内表彰される。
当時の店長は若くてシステマチック。仕事もできて、理論派。なかなかスキがない。
結構細かい部分を詰めれたが、それが表彰のきっかけとなる。

ここからは一気に店長タイトルアップまで飛ばします。
3店舗ほど経験して、店長チャレンジ制度が発足。

この時点でマクド入社10年以上経過しており、同期は出世するか、退職していった。

そして、店長チャレンジに参加することになるのだが、なかなかうまくいかずに半年が経過。

このころ、結婚。社内恋愛からの同棲からの結婚。

店長チャレンジにも拍車がかかり、なんと半年後、店長に。

店長1店舗目はかなりうまくいった。

いきなり1月からの赴任。1月と言うのはクルーのシフトが作りにくい時期。
特に年末年始からの行事が入る日は特に。

なので、いきなりハードなスケジュールでしたが、クルーとアルバイトマネージャーの方の協力でなんとか切り抜けた。

時給も上げた。

実は、もう一つのハードルとして、社員は私一人。スモール店舗だったこともありますが、通常はアシスタントマネージャーがつく。

でも、頼るのは、自分とアルバイトマネージャーとクルー。

そんな店舗を持つことなりました。

でも、意外と初の店長としてのこの経験が評価され、次の担当はなんと、グランドオープン。

ただ、問題が山積な状況。自治体との問題も多く、本部の方を交えて解決ながら開店。

開店ご、当初の売り上げプラン以上のセールスが来てしまったので、店はがたがた。

あえなく、僕の店長経験はマイナスなものとなり、次の店舗はガソリンスタンドが併設した店舗。

その店舗は古臭い人間関係があり、自分の力も発揮できず。事実上降格。

そして、フランチャイズに移行していく中で、家を新築してから夫婦関係はぎくしゃくしだす。

離婚の原因。

いわゆるすれ違いだと思います。

元奥様が半分うつ状態に。

もともと、精神的に弱い部分も持ち合わせていたのですが、業務もハードになりすれ違い。

業務もハードになり、新築の家には帰るだけとなっていきました。

跡で知ったことは、元奥様は、実家に借金をしていたと知る。

そして、あえなく離婚。約6年半の結婚生活は新築後半年で終了。

子どもはいません。

店長降格後、コンビニ従業員になっていくまで。

家の自己破産が決定する前に、1Kのアパートへ引っ越し

転職を決意。

最初は地元の工場へ

3日で退職

一旦マックへ復帰

その後、弟の借金問題が発覚

コンビニへ

今に至る。

自己破産決定までは、こちらにまとめてあります。

 

超簡単な自己紹介。

趣味はドライブ、無計画な一人旅、モノをクリエイトすること。好きな食べ物は納豆、嫌いな食べ物はキュウリ。
特に、アボカドは受け付けません。動物園も好きです。

半年に1度の伊勢神宮参りが趣味。

車も趣味。

ブログを通じてお伝えしたいこと

おそらく、ぼくのプロフィールを最後まで読んでくださった方は、負け組と感じる方も多いと思います。

大学中退、自己破産、離婚、降格。マイナス要素が多いです。

はっきり言って負け組です。

多分、そんな劣等感を持った方も多いかもしれないですし、むしろもっと大変な方もいるかも。

でも、負け組ならではの生き方を提供していきます。

 

読み手に目指してほしい未来

人生をあきらめないでほしい!

自己破産してまもなく6年。

特段生活に困ったこともありません。

なんでしょう?僕はのらりくらいと生き残っている方だと感じています。

なんだかんだ今も正社員をやりながら、ブログ記事を更新しています。

ぜひ、みなさんにやってほしいこと。

①お金の勉強。
②読書
③生き金を使う。
④発信をする。
これだけでかなり人生に軸ができると感じています。

そんな余裕ないよ!日々生きるにに精一杯。仕事も不安定だしみたいな。

本当にそうでしょうか?

まずは、日ごろ何にお金を使っているかをまず考えることからやってみて欲しいです。

そうすると、いかに無駄使いが多いかも分かってくるし。

たばこなども見直したりするきっかけになるかもしれません。

そして、そんな感情を無料で使える音声配信プラットフォームでやってみましょう。

誰も聞いてくれないかもしれませんが、それでも、自分の感情を整理するという意味では効果的です。

お金の勉強

今は、投資信託、仮想通貨もやり始めました。仮想通貨に関しては独学でもいいのですが、サロンに入って少し勉強しています。

そんな記事も少しずつ投稿し始めました。

投資も少額ですが、自分ができる範囲で4年以上継続中。

いわゆるドルコスト平均法です。

そんな勉強もしながら、そのお金でEVを買うのが今の夢です。

読書。

なんだ、意識高い系かよ!

ではなくて、漫画でもいいです。

好きな漫画の一つや2つあると思います。

僕は、スラムダンク。その最終巻を何かしら気分転換に眺めています。

そんな体験でもいいし、今ではAmazonのサービスもあります。

生き金を使う。

まずお金って、なんのためにあるか?って考えたことがありますか?

僕なりの答えは、「生活を豊かにしてくれる道具」

あなたの身の回りでほしいものを買うのではなく、それを買って、生活が豊かになるか?

100円のコンビニコーヒーが豊かになるのであればオッケー。

たばこを吸って、気持ちが豊かになるのであればオッケー。

自分のために使うって感じです。

でも、ギャンブルはやや違う感じがしてます。

発信をする。

発信なんてできねーよ!

そんなんくだらねー、めんどくさい、ネタがない。

本当にそうでしょうか?

Twitterでつぶやくのめんどくさいですかね?

もちろん、向き不向きもありますが、何でもいいと思います。

でも、それを自分の承認欲求にふりまわされがちになるので、
そこは、生き金を使いながら、バランスよく保てればいいと思います。

ネタもなんでもいいです。

愚痴でもいい。

でも、悪口は誹謗中傷と一緒なので、やめましょう!

いまは、

音声配信→スタンドFM
文章→note、Twitter

などが一番手っ取りばやく発信できるツールです。

いずれも無料、小難しい設定もいりません。

そして、合わないと思ったら即やめましょう!

最後のまとめ。

ここまでよんでいただきありがとうございました。

最近は、健康にも投資するようになりました。

ブログもだんだん慣れてきました。

そんな余裕ができるようになったのも、その時、その時、なるべく向き合い解決してきたから。

最後に僕が尊敬する、日本マクドナルド創始者藤田田氏の言葉。

「人間が作ったシステムで解決できないことはない。」

勝てば官軍に書いてある言葉です。

日本はセーフティーネットも整っているし、働くところもある。

そんなことに感謝しながら日々生きていければいいなと思います。

このブログが皆様の生きるヒントになれば幸いです。

最後までよんでいただきありがとうございました。

 

 

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